三陸鉄道「三陸駅」を降りてすぐ、ユニークな建物が集まった場所があります。ここは、片山和一良さん(通称“わいちさん”)が、いらっしゃった様々な方とともに作り上げてきた空間。その名も「潮目」。わいちさんがどのような思いでこの場所を作ってきたのか取材してきました。
潮目。海流と海流がぶつかり、魚が集まる場所。目の前には世界三大漁場に数えられる三陸沖漁場があります。
そのように、人の流れを作り、人やものが集まる場所になったらいいなという思いから名付けられました。
わいちさん:「このエリア・空間を“潮目”と呼んでいる。人を観察するには最高の場所。一人一人違うんだもん。面白いよ」
実は元の建物は、2018年に解体されました。これは震災後、がれきを使って作られたものです。取り付けられていた滑り台は、越喜来小学校の子供たちが避難をするのに使い、彼らの命を救ってくれたものでした。
解体の話が持ち上がった当時、まちづくり委員会を立ち上げた直後だったわいちさんは、自分は建物を残すために頑張る立場ではない、まちづくりはまち全体で協力して取り組んでいくことが大切だと考え、解体することに決めます。そして、滑り台だけはご自身の私有地に移すことにしました。
わいちさん:「これを残して悲しむ人は誰もいないから。プラスの震災遺構だと思ってる」
同じくこの空間にあるシェリーハウス、Bar・バ・ハウスも、プラスの震災遺構です。
潮目はプラスの震災遺構が集まった空間なんですね。
潮目。海流と海流がぶつかり、魚が集まる場所。目の前には世界三大漁場に数えられる三陸沖漁場があります。
そのように、人の流れを作り、人やものが集まる場所になったらいいなという思いから名付けられました。
わいちさん:「このエリア・空間を“潮目”と呼んでいる。人を観察するには最高の場所。一人一人違うんだもん。面白いよ」
実は元の建物は、2018年に解体されました。これは震災後、がれきを使って作られたものです。取り付けられていた滑り台は、越喜来小学校の子供たちが避難をするのに使い、彼らの命を救ってくれたものでした。
解体の話が持ち上がった当時、まちづくり委員会を立ち上げた直後だったわいちさんは、自分は建物を残すために頑張る立場ではない、まちづくりはまち全体で協力して取り組んでいくことが大切だと考え、解体することに決めます。そして、滑り台だけはご自身の私有地に移すことにしました。
わいちさん:「これを残して悲しむ人は誰もいないから。プラスの震災遺構だと思ってる」
同じくこの空間にあるシェリーハウス、Bar・バ・ハウスも、プラスの震災遺構です。
潮目はプラスの震災遺構が集まった空間なんですね。
潮目はわいちさんの遊び心から始まりました。
越喜来にボランティアなどで来てくれる人たちが、楽しく遊べるコミュニティの場所を作りたい。
みんなが楽しく集まって復興の力になればいいなあという思いから作られたのです。
次第に芸術や建築としても評価されるようになりますが、初めはそんなつもりはまったくなかったといいます。
最初は隠れ家的な一軒家から始まり、子供たちが来るたびに秘密基地として遊んでいたのが、日々変化して大きくなっていきます。
わいちさんが大切にしているのは“自分自身が楽しむこと”。
一緒に楽しみながらものができていけばいいなあという思いからこの場所を作ってきました。
潮目はわいちさんの遊び心から始まりました。
越喜来にボランティアなどで来てくれる人たちが、楽しく遊べるコミュニティの場所を作りたい。
みんなが楽しく集まって復興の力になればいいなあという思いから作られたのです。
次第に芸術や建築としても評価されるようになりますが、初めはそんなつもりはまったくなかったといいます。
最初は隠れ家的な一軒家から始まり、子供たちが来るたびに秘密基地として遊んでいたのが、日々変化して大きくなっていきます。
わいちさんが大切にしているのは“自分自身が楽しむこと”。
一緒に楽しみながらものができていけばいいなあという思いからこの場所を作ってきました。
わいちさんは子どもの頃、越喜来は何もない、つまらない場所だと思っていました。
「震災前は仕事一辺倒だったから、何も気づかないまま過ごしてきた」といいます。
震災後、一生懸命に作業をしてくれるボランティアの人たちを労う気持ちから、夏虫山や大王杉に連れて行きます。
すると彼らは非常に感激するのです。
がんづきやなべやきを手作りして出すと喜んで、笑顔で帰って行きます。
そういったことの繰り返しで、徐々にわいちさんの考えは変化していきます。
「俺が住んでるとこ意外にいいんだな」と思うようになったそうです。
このように、外から人が訪れることによって、住民が自らの土地の良さに気づくことが続けば、街の活性化や交流人口につながっていく。
この頃はそのように考えているといいます。
わいちさん:「俺がいくら夏虫山がいいとか騒いだって、地元の人にとってはずっとあるものだから、良さがわからない。よその人が来て歩くことによって、はじめて気づく」
わいちさんは子どもの頃、越喜来は何もない、つまらない場所だと思っていました。
「震災前は仕事一辺倒だったから、何も気づかないまま過ごしてきた」といいます。
震災後、一生懸命に作業をしてくれるボランティアの人たちを労う気持ちから、夏虫山や大王杉に連れて行きます。
すると彼らは非常に感激するのです。
がんづきやなべやきを手作りして出すと喜んで、笑顔で帰って行きます。
そういったことの繰り返しで、徐々にわいちさんの考えは変化していきます。
「俺が住んでるとこ意外にいいんだな」と思うようになったそうです。
このように、外から人が訪れることによって、住民が自らの土地の良さに気づくことが続けば、街の活性化や交流人口につながっていく。
この頃はそのように考えているといいます。
わいちさん:「俺がいくら夏虫山がいいとか騒いだって、地元の人にとってはずっとあるものだから、良さがわからない。よその人が来て歩くことによって、はじめて気づく」
「考え方が違う人たちと関わることによって、自分の生き方もいろんな方向に影響を受けて変わっていった」と言うわいちさん。
震災をきっかけに視野も人間関係も広がったといいます。人のつながりは財産だと語るわいちさん。
「潮目そのものってなんだろう?と考えると、最終的には構成するのは“人”だというところに行き着きました。
いろいろな人たちとのつながりの中で、考え方もかたちも変化していった結果、今の潮目があるのです。
わいちさん:「誰によって変わったってない。みんなに影響受けてるよ」
周りの人たちに染まりやすく、影響を受けやすいのだというわいちさん。出会う人、一人一人から少しずつ影響を受けた結果、今のわいちさんや潮目があるのです。
「考え方が違う人たちと関わることによって、自分の生き方もいろんな方向に影響を受けて変わっていった」と言うわいちさん。
震災をきっかけに視野も人間関係も広がったといいます。人のつながりは財産だと語るわいちさん。
「潮目そのものってなんだろう?と考えると、最終的には構成するのは“人”だというところに行き着きました。
いろいろな人たちとのつながりの中で、考え方もかたちも変化していった結果、今の潮目があるのです。
わいちさん:「誰によって変わったってない。みんなに影響受けてるよ」
周りの人たちに染まりやすく、影響を受けやすいのだというわいちさん。出会う人、一人一人から少しずつ影響を受けた結果、今のわいちさんや潮目があるのです。
「最近、“潮目”という言葉自体は震災前から使っていたことに気づいた」と語るわいちさん。
震災前にわいちさんは小説を書いていました。越喜来を舞台に、いろいろな人生が交差する物語。
その小説のタイトルが“潮目”でした。
物語は、一人の女性がたたずんでいるところへ、それを自殺と勘違いした青年が止めに入るシーンから始まります。
実は女性はあまりの絶景に見とれているのです。舞台となっている希望岬は、明日が見え、希望が見え、勇気が湧いてくる場所。
この小説のサブタイトルは「明日が見える岬」となっています。
この小説で、越喜来に集まってくる登場人物がだんだん増えてきたタイミングで、震災がありました。
震災後、今続いている現実を考えると、
「あのときの小説の続きが今あるんじゃないかという錯覚に陥っている」と言うわいちさん。
この頃は、今一人の登場人物として生きているんだなと感じるそうです。
「最近、“潮目”という言葉自体は震災前から使っていたことに気づいた」と語るわいちさん。
震災前にわいちさんは小説を書いていました。越喜来を舞台に、いろいろな人生が交差する物語。
その小説のタイトルが“潮目”でした。
物語は、一人の女性がたたずんでいるところへ、それを自殺と勘違いした青年が止めに入るシーンから始まります。
実は女性はあまりの絶景に見とれているのです。舞台となっている希望岬は、明日が見え、希望が見え、勇気が湧いてくる場所。
この小説のサブタイトルは「明日が見える岬」となっています。
この小説で、越喜来に集まってくる登場人物がだんだん増えてきたタイミングで、震災がありました。
震災後、今続いている現実を考えると、
「あのときの小説の続きが今あるんじゃないかという錯覚に陥っている」と言うわいちさん。
この頃は、今一人の登場人物として生きているんだなと感じるそうです。
「越喜来は日本のふるさとのような場所になってほしい。いつでも気軽に帰ってこれる場所にしたい」と言うわいちさん。
越喜来で生まれ育ち、一度は離れた人たちが、
「あそこに行くとほっとするなあ」
「休みができたからあそこ行ってのんびりしようかな」
と思い再び訪れるなど、関わりを持ち続けられるような場所であってほしいと願っています。
「“遊びにおいで”というよりは“休みにおいで”と気軽に言える場所になってほしい。だから美味しい空気と綺麗な海の色や山の緑は残しておきたい」と言うわいちさん。
そのため、この地域にあった観光の形を望んでいます。
例えば、大型バスや車でどこまでも行くのではなく、徒歩や自転車といった手段も活用する。集団ではなく、少数グループで楽しむ観光の仕方も取り入れる。
そのようにして楽しむ観光地であってほしいと願っているのです。
「越喜来は日本のふるさとのような場所になってほしい。いつでも気軽に帰ってこれる場所にしたい」と言うわいちさん。
越喜来で生まれ育ち、一度は離れた人たちが、
「あそこに行くとほっとするなあ」
「休みができたからあそこ行ってのんびりしようかな」
と思い再び訪れるなど、関わりを持ち続けられるような場所であってほしいと願っています。
「“遊びにおいで”というよりは“休みにおいで”と気軽に言える場所になってほしい。だから美味しい空気と綺麗な海の色や山の緑は残しておきたい」と言うわいちさん。
そのため、この地域にあった観光の形を望んでいます。
例えば、大型バスや車でどこまでも行くのではなく、徒歩や自転車といった手段も活用する。集団ではなく、少数グループで楽しむ観光の仕方も取り入れる。
そのようにして楽しむ観光地であってほしいと願っているのです。
わいちさんは、住民が地域に対して「誇り」を持つことを大切に考えています。
例えば、日頃から夏虫山や大王杉などに連れて行ってこういう場所があるんだと教えます。そうすれば、彼らがいずれ出て行ったとしても、思い出すことのできるふるさとになります。そうやって住民が自分の土地や生き方に誇りを持っている姿を子供たちに見せていけば、子供たちの中にも地域に対する思いが残り、いつかは帰ってくる場所になります。
わいちさん:「そういう場所があることを知らないで出て行くと行ったっきり戻っていく機会ってないもん」
住んでいる人がその土地の魅力に気づいて誇りを持って生きてほしい。我々がいい場所だよということを訴えないとよその人なんて来るわけない。
その思いを語ってくれました。
今は便利さや速さを重視しがちだけれど、何もそんなに急ぐことはないなと思う。よそ見をしながらゆっくり歩いてほしい。
そうおっしゃるわいちさん。
わいちさんはらせんトンネルを歩くときに、後から歩く人が楽しめるようにと、いろいろな仕掛けをしています。
例えば、黄色い小石をところどころに置いたり、テントウムシを飾ったり。
しかし、ほとんどの人が気づかないで通り過ぎてしまうそうです。
峠を黙々と歩いてくる人たちは、こういうものがあると嬉しくなるんじゃないかなという思いからやっています。
時間で区切られた生活を送っていると、ゆっくり周りを眺めたりすることを忘れがちになります。
わいちさん:「そんなに急ぐことない。可能性はいっぱい広がっているから、よそみをしてほしい。意外と気づかないことが足下見ればいっぱいある。」
今は便利さや速さを重視しがちだけれど、何もそんなに急ぐことはないなと思う。よそ見をしながらゆっくり歩いてほしい。
そうおっしゃるわいちさん。
わいちさんはらせんトンネルを歩くときに、後から歩く人が楽しめるようにと、いろいろな仕掛けをしています。
例えば、黄色い小石をところどころに置いたり、テントウムシを飾ったり。
しかし、ほとんどの人が気づかないで通り過ぎてしまうそうです。
峠を黙々と歩いてくる人たちは、こういうものがあると嬉しくなるんじゃないかなという思いからやっています。
時間で区切られた生活を送っていると、ゆっくり周りを眺めたりすることを忘れがちになります。
わいちさん:「そんなに急ぐことない。可能性はいっぱい広がっているから、よそみをしてほしい。意外と気づかないことが足下見ればいっぱいある。」
わいちさんの優しい笑顔とお人柄に、一瞬でファンになってしまったのでした。
これからも、人が集まり、楽しく交わる、この素敵な場所「潮目」が続きますように。
2022年9月 更新
電話番号 | 090-8780-5509 |
---|---|
住所 | 大船渡市三陸町越喜来字肥ノ田30-10 |