濱守栄子さん

夢は一人でも多くの人に話すと叶いやすくなる。

大船渡市出身のシンガーソングライター 濱守栄子さん。
女性らしいふんわりとした優しい雰囲気の濱守さんですが、その雰囲気通りの癒される声で歌う曲は、子どもから大人までみんなに愛されています。
2011年8月に発売された「国道45号線」はどなたも一度はお聴きになったことがあるのではないでしょうか。また、義援金を寄付する活動を続けており、大船渡市とお隣の陸前高田市に大いに貢献してくださっています。
そんな濱守栄子さんですが、素顔がどんな方なのか…仕事に対する熱意は…輝く女性からヒントをもらおうと、フナコはガンガン取材してきましたよ♡

歌手なんて興味ない。- 金融機関職員時代 -

大船渡市末崎町のご出身で、高田高校を卒業後、金融機関職員に。
大船渡支店に2年いたあと高田に転勤し、ご実家から通っていました。

歌はもともと好きだった濱守さん。「歌手になりたい」と思ったことはなかったけれど、飲み会の席では歌って♪踊って♪楽しんでいたんですって☆
もちろんその頃はカラオケを楽しむ程度で、ピアノも作曲もできない…歌手には興味もない。

とある日、金融機関職員時代の上司の息子さんが作曲をされる方で、歌い手を探していたようですが…なんとその白羽の矢が濱守さんに。
その後、「もしかして自分でもできるかも…?」と思い曲を作り出した濱守さん。
某インターネットサイトで自分の歌を配信しはじめたのですが、それに目をつけたのが今のプロデューサーとのこと!
その時濱守さんは26、27歳くらいでした。

歌手なんて興味ない。- 金融機関職員時代 -

大船渡市末崎町のご出身で、高田高校を卒業後、金融機関職員に。
大船渡支店に2年いたあと高田に転勤し、ご実家から通っていました。

歌はもともと好きだった濱守さん。「歌手になりたい」と思ったことはなかったけれど、飲み会の席では歌って♪踊って♪楽しんでいたんですって☆
もちろんその頃はカラオケを楽しむ程度で、ピアノも作曲もできない…歌手には興味もない。

とある日、金融機関職員時代の上司の息子さんが作曲をされる方で、歌い手を探していたようですが…なんとその白羽の矢が濱守さんに。
その後、「もしかして自分でもできるかも…?」と思い曲を作り出した濱守さん。
某インターネットサイトで自分の歌を配信しはじめたのですが、それに目をつけたのが今のプロデューサーとのこと!
その時濱守さんは26、27歳くらいでした。

きっかけは祖母の他界。- 上京 -

そこからトントン拍子に事が進んだのか…と言われると、やはり人生は一筋縄ではいかないんですね。
今でこそプロデューサーと呼べますが、当時はインターネットサイトで声をかけられたことから、「騙されているのでは…」と、信用できるまで2,3年かかったそうです。
歳月は流れ、プロデューサーを信用し始めたと同時期に、濱守さんの祖母が他界。
その際「人はいつ死ぬかわからない。やりたいことやらないと。挑戦してみないと」と、祖母の死をきっかけに金融機関職員をやめ、音楽業界へ。

人生勉強という意味も込めて「上京」することを決意しました。

『導かれるように音楽業界にきました』

フナコ「金融機関職員と言えば、安定。ご両親も安心すると思いますが、続けていきたいとは思わなかったのですか?」
濱守さん『そうそう。そんな質問の時いつも使う言葉があるの!私は導かれるように音楽業界に来ました、って(笑)』

屈託のない笑顔でそう話す濱守さん。ついその笑顔につられてフナコもにこにこ。でも前述の話を聞く限り、ほんとその通りだなって思います。

フナコ「東京に出てどうでしたか?」
濱守さん『大船渡にいた頃は、例えば服屋さんが無ければ盛岡に行く、病院も選択肢がない中で通う、っていうのが当たり前。でも東京に出たら選択肢がたくさんだった!学校・病院・仕事…一番は仕事かな?選択肢がいっぱい=チャンスがいっぱい。』

それだけ聞くといいな~東京。という印象をもちましたが、次の話を聞いてフナコ少し納得。

濱守さん『東京は、仕事でも「ここがダメなら次に行けば…」という意味では選択肢がたくさんあるけど、その分我慢強くない人が多い。でも大船渡の人って違う。嫌でも続けないと、っていう意地がある。大船渡で暮らしていた頃はそういうのが当たり前だと思っていたから気づかなかったけど、上京してみてそれは「我慢強さ」として自分に身についている、って気づいた』

『導かれるように音楽業界にきました』

フナコ「金融機関職員と言えば、安定。ご両親も安心すると思いますが、続けていきたいとは思わなかったのですか?」
濱守さん『そうそう。そんな質問の時いつも使う言葉があるの!私は導かれるように音楽業界に来ました、って(笑)』

屈託のない笑顔でそう話す濱守さん。ついその笑顔につられてフナコもにこにこ。でも前述の話を聞く限り、ほんとその通りだなって思います。

フナコ「東京に出てどうでしたか?」
濱守さん『大船渡にいた頃は、例えば服屋さんが無ければ盛岡に行く、病院も選択肢がない中で通う、っていうのが当たり前。でも東京に出たら選択肢がたくさんだった!学校・病院・仕事…一番は仕事かな?選択肢がいっぱい=チャンスがいっぱい。』

それだけ聞くといいな~東京。という印象をもちましたが、次の話を聞いてフナコ少し納得。

濱守さん『東京は、仕事でも「ここがダメなら次に行けば…」という意味では選択肢がたくさんあるけど、その分我慢強くない人が多い。でも大船渡の人って違う。嫌でも続けないと、っていう意地がある。大船渡で暮らしていた頃はそういうのが当たり前だと思っていたから気づかなかったけど、上京してみてそれは「我慢強さ」として自分に身についている、って気づいた』

大いに共感しました。やりたいことがすぐできなければ、どうすればできるかを考える。欲しいものがなければ、どうしたら手に入るかを考える、行動する。欲求の先がすぐ目の前にある環境はもちろん素敵な事ですが、そうじゃないときの生き抜き方…この能力って大船渡の人は優れていると、みなさんも思いませんか??

義援金チャレンジをやろうと思ったきっかけは?

東京で、あんべ光俊さん主催の【岩手県出身者だけで復興支援ライブをし、収益の全部を寄付する】というイベントにお客さんとして見に行った濱守さん。
そのイベント終了後、濱守さんも震災後の郷里になにかしたいと思い、同じようなイベントをしたそうです。
その時は80人くらい集まり、そこで集まった義援金が6万8000円。これを大船渡に寄付しようと思いましたが、もっと大きな金額にしようと思い、路上ライブを開始。目標を20万としましたが、それがわりとすぐ集まり大船渡市に寄付。しかし「それで終わっていいのか?」と自問自答。結果、高田にも長く通っていたこともあり、同じ金額を寄付しようと再び20万にチャレンジ。それもまたすぐ集まり、次は30万ずつに、次は50万ずつに。
するとその頃から「ここで歌いませんか?」という声がかかるようになり、歌う場所が増えていったのです。
お仕事として歌うようになり、路上ライブから卒業。それが今も続いている義援金チャレンジの始まりでした。

シンガーソングライターとしてご活躍されている濱守さんですが、いい意味で気取らず話しやすい、優しい素敵な女性でした。
義援金チャレンジの他に、もっと大きな夢があるとキラキラした瞳でお話してくださいました。
大船渡で生まれ育ち、世界へ羽ばたいていく濱守さんを今後も応援していきたい♡と思ったフナコでした☆

フナコ、突撃ドキュン♡

Q1.もしも大船渡で好きな所に住んでいい!と言われたらどこを選びますか?
『やっぱり末崎!!!』

Q2.大船渡を知らない人に大船渡を「一言で」説明するなら?またその理由は?
『「椿とさんまのまち」!大船渡を知らない人やコンサートでは「震災で壊滅的な被害を受けた海の町の一つですよ」と説明するかな~』

Q3.大船渡でしか味わえないもしくは体験できないことは?
『穴通船!でも実はまだ乗ったことはないんです。父親の小型船で通ったことはあるけど♪』

Q4.10年後の大船渡とご自身の理想は?
『大船渡には…新幹線が通ってほしい(笑)もしくは空港(笑)とにかくもう少し交通の便が良くなって欲しい!自分の目標は…今まで自分がフロントマンになってやってきたけど、後輩をプロデュースしたり、楽曲提供をしたりしたいかな~』

Q5.これからやってみたい・チャレンジしてみたいこと・目標は?
『音楽で世界平和を。自分が作った曲などでみんなが笑顔になってくれたら。』

濱守栄子さんの基本情報

2018年9月 更新

URL
その他 出身地:末崎町
職 業:シンガーソングライター
趣 味:月に1度のファスティング、非日常を味わう
血液型:O型
家族構成:一人暮らし
大船渡歴:29年
好きな食べ物:豆乳ヨーグルト、フルーツ全般、バーニャカウダ
休日の過ごし方:岩盤浴、神社めぐり、古着屋めぐり
好きな本:「言葉相」・「思考は現実化する」
好きな映画:「グレイテスト・ショーマン」
PR大船渡のオススメ<その1>
『はっちゃんのなべやき』
はっちゃん(元屋台村 天使の森)のなべやきは、ふんわり厚くて食べごたえもあってとにかく美味!!今でも注文して食べています。早く復活して欲しい!

大船渡のオススメ<その2>
『やっぱり碁石海岸』
海と空のコントラストがとても美しく、どこまでも広がる水平線のパノラマを眺めていると、自分の悩みなんて、なんて小さいんだろう…と思えてくるから不思議です。やはり自然は超一流!!

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